元生物科学専攻(動物学系)所属・名誉教授 曽田貞滋

 
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私は1998年の秋に動物学教室に助教授として赴任しました。今年3月末に定年を迎えるまでの24年半、研究に関しては自分の興味の趣くままに自由に進めることができ、有り難いことだったと思います。しかし、最後の3年間はコロナ禍にあって予定していた海外調査なども実施できず,辛い思いをしました。おまけにその2年目には狭心症をわずらい、京大病院に緊急入院して処置を受けました。退院後は気をつけて生活し、何とか定年の日を迎えることができましたが、いささか悔いの残る最後の3年間でした。
 「なぜたくさんの昆虫種がいるのか」は最終講義の演題です。私は本学の農学部・農学研究科の出身ですが、主に昆虫を対象として、適応形質の進化、種分化、多種の共存機構など、種の多様化に関する研究をしてきました。大学院を出てすぐに、佐賀医科大学医学部の助手となり、病気を媒介する蚊の研究を行うなど、少し応用的な研究にもたずさわりましたが、数年で信州大学理学部に移り、それ以来、私自身の興味に基づく生態と進化についての基礎的な研究を続けてきました。
 私は学部の卒業研究、大学院では教員にあまり相談することなく自分で決めたテーマで研究を進めました。お金のかからない研究だから可能だったのですが、教授をはじめ教員の方々も寛容で、放任主義的ところもありました。当時はどの教員にも相談ができるような雰囲気だったので、私は論文ごとに違う教員に原稿を見てもらいましたが、学位取得までに出版した論文6篇はすべて単著でした。当時の研究室では単著が当たり前でした。学位取得後、学振PDの面接のときに、「あなたの論文はすべて単著だが、これはどうしてですか?」と質問され、はじめて他の分野の常識からずれていることを認識しました。
 放任主義はある意味理想ですが不都合な面もあります。自分が教員となってからは、学生の自主性を重んじながらも、研究の計画と実施を適宜サポートするように心がけました。研究テーマに関しては、学生が調べたい対象生物や現象があればできるだけそれを尊重するようにしました。学生が独自に考えて一人で実行した研究テーマで、進化生物学の教科書に紹介されるような面白い成果が得られたことも一度ならずあります。大学院で指導する学生が主体となる論文は、自分のときとは違い、指導者兼共同研究者として必ず共著で出版しました。学生の論文への関わり方については異なる考え方もあろうかと思いますが、一緒に悩んで原稿の改訂を何度も繰り返し、投稿後は査読者のコメントと格闘して最後にアクセプトにこぎつけるまでの協同は、指導教員の最も肝心な役割と言えるのではないかと思います。
 さて、退職してから毎日が休日のような不思議な感覚で生活していますが、まだ解析して論文にすべきデータがたくさんあって、四六時中研究のことから頭が離れず、切り替えができていません。退職したら何か他のことに没頭して、違う人生を歩むのがいいのではと思っていましたが、今はこれといった趣味もありません。もっともこれまでは仕事として趣味的な研究をしてきたので,仕事でなくなった今は百パーセント趣味に勤しんでいると言えるかもしれません。もうしばらくは昆虫の種多様性の秘密を探求し続けることになるかと思います。